2007年度学びの森春のコース「思い出の心理学」の第1回が開催されました。今回の参加者は8名でした。そのうち、4名が前回・あるいは前々回の参加者の方です。本当にありがたく思います。
今回は、自己紹介を兼ねて、思い出の技術と思い出(記憶)の心理学がどういう状況にあるのか、1990年代の後半にいたってその二つが重なり合うようになってきたのだ、という話をしました。
さらに、私たちがどういうことをこれまでにやってきたかを、2006年度の春の作品(地図上に思い出をマッピングしたもの)、秋の作品(8枚の写真を蛇腹にしたもの)をお見せしました。前者は複数の人で一つの大きな作品を作ったもの、後者は、個人が自分の思いをまとめたもので、作品の形態としても、また表現の仕方としても大きく異なるものです。
今回のテーマの一つは、本来個人的なものと思われてきたさまざまな思い出が、なぜ重要になってきたのか、またそれを語ると言うことにはどういう意味があるのか。たとえば、今では(私がここでこうやっているように)、個人の思い出をインターネットを介してたくさんの人に公開することは容易にできます。しかし、それにいったいどういう意味があるのか。たとえば、私たちが昨年の春に作った作品は、いったい誰に向けてどういう目的で作ったものだったのだろうか。こういうことを考えてみたいのです。
思い出はそれ自体として楽しいものであり、また、大切なものでもあるでしょう。しかし、それを作品として、あるいは作品とまではいかなくても、一つのものとして形として表現するとしたときには、そこには何らかの意図があり、語る相手がいるはずです。
もちろん、同じ部屋で作業をしているこのメンバーの間ではその語りの意味は自明ですし、また、それは共有することができます。しかしその範囲を超えて語りを広げることには意味があるのでしょうか。
思いを具体的なものとして形にすることがいろいろな副次的な効果を持つ(よい意味でも悪い意味でも)ということはよくわかっています。(私たちも学びの森でそうした体験をしてきました。)今回の「思い出の心理学」がめざしているのは「ネズミの心理学」でもなく、また、教科書にある「一般論の心理学」でもありません。私たちが具体的に体験したことをどう語り、またそれを誰かに向けてコミュニケーションすることが私たちにとって持つ意味を考えてみたいと思っています。
次回はワークショップが入ります。それぞれが何かを持ってきて(モノかもしれませんし、思いかもしれません)、それについて語ってみたいと考えています。それがどういう形の作品になるのか、またそれはいったいここで公開されるものになるのか、それはまだ私たちにもわかっていません。
今回のメンバーも多士済々です。すでにさまざまな思い出ノートを作られている方、自分史作りを実践されている方、介護の生活の中で日々の記録を作られている方などでした。私個人にとってうれしいのは、昨年とある大学で非常勤講師として授業をしたときの学生さんの一人がお金を払ってまで参加してくれたことです。「孫の世代ですね」という話も出ましたが、おかげで年齢層の巾も広がりました。
次回もよろしくお願いいたします。
