LastUpdate:
本書『女の能力、男の能力――性差について科学者が答える』は、Doreen Kimura "Sex and Cognition", MIT Press, 1999の翻訳である。
(1) 著者について
本書の著者のDoreen Kimuraは、1940年にカナダのマニトバに生まれ、マギル大学のDonald O. Hebbの元で心理学を学んだことがきっかけとなって心理学を専攻し、ほぼ30年の間ウエスタンオンタリオ大学で研究を行った。現在は、カナダのサイモンフレーザー大学の認知神経心理学の教授である。
「カナダの偉大な科学者プロジェクト」の20数人の中の一人として選ばれている。名字は「キムラ」であるが、日系人ではない。
キムラ本人のWWWページの中で、彼女は、人の認知運動機能に対する生物学的な影響が自分の研究の領域、興味の対象であり、それについて、脳の障害の認知機能への影響、障害を持たない人の左右半球の差異、性ホルモンの認知機能への影響というさまざまな観点から研究を行ってきている。
本書はその集大成であり、キムラ自身もこれまでの自分の仕事は、本書ともう一冊に集大成されていると述べている。
(2) 本書について
本書は、きわめて論争的な本である。
と書くと誤解を招くかも知れない。一読された方には明らかなことであるが、本書は、確かなデータに基づいて、実に丁寧に、冷静に書かれた本である。キムラは論争好きのようであるが(それは、彼女のWWWページを見るとわかる)、本書ではそうした側面は控え目にされ、あくまでもデータで語ろうとする姿勢で一貫している。
それにも関わらず、本書は論争を引き起こすことになるだろうと訳者は考えている。それは、男と女の性差がどのようにして生まれているのか、そして現在の男性と女性の社会的な位置づけが適切なのかどうかというのは、現在においてますます重要な問題となってきているからである。本書はそうした論争の流れをふまえ、その一石となるべく執筆されている。ここでは、その背景を含め説明することで、本書の解説としたい。
(3) 氏も育ちも・・・
本書の主張は明確である。第13章の冒頭にまとめられているように、男と女の間には生物学的な要因(典型的には性ホルモンにさらされることによる)認知スキル、問題解決スキルにおける差異があるということである。この結論を説得的に提示するために、キムラは、自分の研究室で行った実験、その他の研究者による最近の知見をわかりやすく、具体的に、順序を追って示している。
本書で述べられていることを(誤解を招くことを承知のうえで)単純に言ってしまえば「男と女は違う」という主張には生物学的な根拠があるということである。
「男と女がさまざまな面で違う」ということは、普通の人にとっては改めて主張するまでもない当然の話かもしれない。男の子は男の子らしい遊びを自然にするようになるし、女の子は女の子らしい遊びをするようになる。成人しても男と女の行動には画然とした差異がある(し、あるべきだと思っている)。これが、ごく普通の人の認識だろう。
しかしながら、なぜこのような差異が現れるのか(そして、現状の男性と女性の性役割・分業が妥当なものなのか)を考える段になると、話はそれほど単純ではなくなる。本書でも何度か説明がなされているように、「男の子が男の子向けのおもちゃを好むようになる」ということは、生物学的な説明(そのような嗜好や行動傾向を決定する生物学的な要因がある)でも、社会化による説明(男の子にはそもそも男の子向きのおもちゃが与えられるし、男の子が女の子向けのおもちゃで遊んでいると変だからやめなさいという社会的な圧力がかかる)でも説明ができるからである。
この問題は、心理学の歴史においてはきわめて重要なトピックの一つだった。すなわち、人の知能、性格、嗜好、行動傾向など、心理学が対象とするほとんどありとあらゆるものが、遺伝などの生物学的な要因によって決められるのか、それとも文化の学習や同調への圧力などの社会化の要因によって決まるのかについての双生児研究、文化差の研究、発達過程の追跡、動物実験などの手法でさまざまな研究が行われてきた。
この議論は多岐にわたり、簡単な総括をするのは私の手に余る。しかしながら、長い期間を経てようやく、遺伝か社会化か(氏か育ちか)という単純な二項対立は不毛であるということで研究者の間での合意はできてきたということはできるだろう。社会化の過程が私たちの認知や行動パターンの形成に強い影響を及ぼしているのは明らかなことであるし、また、生まれながらに人が持っているメカニズムを仮定せずには、簡単な言語獲得のプロセスすらも説明できないということがわかってきたからである。
たとえば、言語発達における生得性に関する議論については、以下の書が参考になるだろう。
(4) 本書の位置
したがって、本書も、人の認知運動能力が生物学的な基礎によってのみ決定されているということを主張しているわけではない。本書での力点は、生物学的な基礎の方に置かれているように見えるが、逆の考えの方も強かったということを反映している。
たとえば、本書の第3章(p.32)にも記載されている「生後8ヶ月のときに手術中の事故によってペニスが焼失した男児が女性として問題なく育てられた」という事例は、誕生した後の社会化のプロセスによって、子どもの性を生まれついた性と異なる側にでも変えることができ、それが問題なくその子に受け入れられるということを示す例として長らく利用されてきた。しかし、これが事実と相違していたということが広く知られるようになったのは、1990年代後半のことなのである。
この事例の詳細についての本が翻訳されている。
本書が1990年代の最後の時点で執筆されたというのは、偶然ではない。以下のような要因が影響していると考えられる。
a. 脳科学、生理学研究の進展
技術や設備の進歩、新たな研究技法の開発により脳科学や生理学の研究が飛躍的に進んだこと。これによって、人の脳や内臓諸器官の部位、性ホルモンなどと個々の認知能力との間の具体的な対応がしだいに明らかになってきた。これまで、脳の一部に病変を持つ人や死後に病理解剖をすることによって間接的に推測していた脳の機能をそのまま画像として表示したり、各種の性ホルモンを選択的に投与することもできるのである。また、遺伝子研究も著しい勢いで進展している。こうした科学から得られるデータによって、これまで結論を出すのが困難だった男女の差異が具体的に何に由来しているのかの研究がしやすくなってきている。もちろん、器質的な差異が見られたとしてもそれが直接的に認知機能に影響を及ぼしているかどうかについては、さらに検討が必要だろうが、今後の技術の進展にともなって、この生理的な違いに原因を求める傾向はさらに進んでいくと考えられる。
b. affirmative actionの問題
アファーマティブアクションとは、「差別撤廃プログラム」「差別解消積極措置」などと訳されることがあるが、以下のような具体的で実効を持った差別解消のプランであった。
「アメリカ合衆国で、企業・団体・学校が、人種・出身国・性別等を理由とする雇用・教育上の差別を行わないだけでなく、差別を受けてきた黒人(アフリカ系アメリカ人)等の少数民族や女性の社会的地位の向上のために雇用・教育に関わる積極的な優遇措置をとること、または連邦政府の施策や法廷の命令により、企業等に対してそのような措置を義務づけることを指す。…」(平岡公一『福祉社会事典』pp.15-16,弘文堂,1999年)
1960年代から始まるアファーマティブアクションプランは、アメリカの民主主義の一つの現れとも考えられてきたものであるが、これが90年代以降のアメリカの保守化、アンチリベラリズムの流れの中で多数派白人に対する逆差別であるとして見直しや撤廃が図られつつあるということがある。本書でキムラが危惧しているのは、このアファーマティブアクションの行きすぎである。
(5) 留意したいこと
男と女の違いは、昔から多くの人の興味を引く話題だった。近年も、このトピックをおもしろおかしくまとめた本が日本で大ベストセラーになっている。しかしながら、それらの中には恣意的なデータやずさんな議論もあり、茶飲み話としてならともかく、学問的な検証にたえうるものとはいえなかった。知能指数が人種間で異なるかどうかに関する議論と同様に、男性と女性に生まれながらの差があるということは、安易に語ると、単に現状の性差別を肯定することにつながる恐れがある。
知能指数の人種間の差を説明しようとする試みの一部が人種差別の理論的な根拠と考えられてきたということについては、以下のグールドの著作に詳しい。
著者のキムラは女性であり、彼女が現状に存在する女性差別を容認しようとして本書を書いたとは考えられない。しかしながら、読者が本書を誤読しないためにも留意していただきたいことが2点ある。
まず第一点は、日本において本書を読むということに関わる。前節で述べたように、本書は、アファーマティブアクションという取り組みが有効に機能している文化社会の中で、それを前提として執筆されている。しかしながら、日本においては、これまでそうした積極的な行政的、制度的な「弱者救済措置」は取られたことがないということに留意しておかねばならない。また、アファーマティブアクションの行きすぎによる「逆差別」が問題となってきたアメリカ、カナダにおいても、まだ女性の科学への参加が少ないということに危惧を持つ人は多い。たとえば、アメリカ計算機科学会 (ACM)では、数年来、コンピュータサイエンスへの女性のさらなる参加を求める動きがある。キムラもその一員として選ばれた「カナダの偉大な科学者」の選考基準にも、女性が直面するバリアを考慮して、カナダにおける科学者全体に占める女性の比率が5%であるのに対し、20%程度の女性を含めるという「政治的な」配慮をおこなっている。
もちろん、キムラは、第13章に書いているように、男性、女性でなく個人が個人として尊重され、社会的な要請・必要とは別に、個人の持つ能力が適切に発揮できる社会を望んでいるのである。彼女は、場合によっては生物学的要因も反映して決定されているはずの個人の興味や能力をのばすチャンスを逆に押し潰しかねない機械的な男女平等を押し進めようとする力に反対しているということは理解していただけると思う。
キムラは、アカデミックな場における研究・教育の自由と、アカデミックな観点からの研究者の決定を擁護するための組織であるSAFS (The Society for Academic Freedom and Scholarship)の創立メンバーの一人である。その観点から、たとえば、大学の教授を選ぶとき、学問的に優れた業績をあげている男性とさほど業績をあげていない女性が候補であるとして、男性であるがゆえに就職の機会を失われてしまうというようなアファーマティブアクションプランには強く反対している。
留意していただきたいもう一点は、本書は (1) 男性と女性を集団として見たときの差異を (2) 実験的に測定できる純粋な認知・運動能力を中心にして述べているということである。第13章でキムラも述べているように、本書で取り上げた多くの能力は要素的な能力であって、その高低は、日常生活において私たちが利用している多様な能力の高低と直接対応するとは限らない。たとえば、第13章にもあげられている例であるが、図形の回転課題のような純粋な空間認知能力テストの女性の得点が男性に比べて低いからといって、女性の方が道に迷いやすいというよく聞かれる俗説の正しさが説明されたと考えてはならない。迷わずに道を歩くというのは、街に関する知識、手がかりを見つける能力、人に道を尋ねる技術、過去経験などさまざまな知識、能力、社会的なスキルが組合わさって実現されているのである。
方向音痴、とりわけその社会化プロセスとのかかわりについては、
を参考にしてほしい。
また、集団としての女性の空間能力が低いからといって、目の前にいるある一人の女性の空間能力が低いかどうかはわからない。男性と女性の集団間の差よりも、集団内での個人差の取りうる幅はきわめて大きいからである。
本書は、フェミニズムの立場の人にとっては女性の社会進出、女性の権利の拡充を目指す動きに水をかける反動的な書物と見えるかも知れない。また、知能検査を人種差別を根拠づけるための道具とした人がいたように、本書もその一部だけを選んで取り上げれば差別のための根拠として悪用することも不可能ではないだろう。しかし、キムラの意図も、また、本書を訳した私たちの意図もそこにはない。男と女の違い、個人と個人、そして、私とあなたの違いがどのようにして生まれたのかを明らかにし、個人が個人として尊重される社会を構築していくときの客観的な事実に基づく議論をするための出発点に本書がなることを期待している。
(6) 謝辞
本書の翻訳は、2000年の認知科学会の大会で販売されていた原著を(現)NTT東日本(株)法人営業本部マルチメディア推進部の新垣紀子さんが見付け、訳者の一人の野島に推薦してくれたことをきっかけとしてスタートした。新垣さんと野島はちょうどそのとき「方向音痴における性差」の議論をしていたときだったので、面白いのではないだろうかと考えたのである。翻訳のきっかけを作ってくれるとともにおりにふれて(ときには批判的に)励ましてくれた新垣紀子さんに感謝する。
新曜社の塩浦あきらさんには、翻訳過程のさまざまな場面でご尽力をいただいた。翻訳過程の進行管理、アドバイスのみならず、4番目の訳者としての役割も果たしていただいたことに感謝をしたい。
なお、本書についてのご意見、感想、翻訳上の疑義、質問などがあれば、
まで送っていただきたい。本書に関する情報については、今後、
でフォローアップを行う予定である。
[表紙ページに戻る]